マーケボン Vol.22

KYLYN

※読売新聞社の刊行物に連載した書評のアーカイブです。
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マーケボン
(2012年10・11月号)

Vol.22 : 芸術と実務の間
『翻訳夜話』(村上春樹・柴田元幸/文春新書)

どんな経緯だったか詳しいことは忘れてしまったが、大学時代に自分の将来を占ってもらったことがあった。この子のタロットはすごいんだよ、と誰かが大学のラウンジに連れてきた女の子で、たまたまその場に居合わせた何人かをみてくれた、というようなことだったと思う。

「芸術と実務の間、というのがあなたの適性みたい。どちらもわかる人。その間をとりもつ、という感じの仕事が向いてるかな。あなたは芸術家になりたいと思っているようだから残念かもしれないけど」というのが彼女の見立て。就職活動の直前だったから、仕事の適性をみてほしいと注文したのだった。

この見立ては強く記憶に残っている。文学部の作家養成学科に籍をおいてはみたものの、作家の才が無いことに遅まきながら思いが至った頃で、何とも宙ぶらりんな状態にあった自分に何となくの方向感を与えてくれた、という感じがしたのだ。

その後、実際に就職することになる広告会社の面接で広告業界を志望した理由を問われた時、私はこの「芸術と実務の間」の話をした。自分の適性はそこにあるような気がする、広告というのがそういう仕事なのだとすればうまくやっていけるのではないか。その話が評価されての入社かどうかはわからないが、私の広告という仕事の捉え方は、以来二十数年、基本的には全く変わっていない。

「広告は芸術だ」という広告制作者の自負には、それは勝手な思い上がりだぜと思う。広告は、自分を語るものではないからだ。かといって「広告は芸術ではない」という訳知り顔にも、本当にそうかね、と思う。広告主の言い分をただ詰め込んだだけの広告ほどつまらぬものはないではないか。広告という仕事の面白さは、その「間」にあるのだ。

「中学校のときに職業適性検査のようなものを学校でやって、その結果僕については、この人はやりたいことは芸術的・創造的なことに大きく傾いているけれども、そうした方面の能力ははなはだ貧しく、むしろ能力的には実務的・事務的なことに向いている、という結果が出た」と、ポール・オースターの名翻訳で知られる柴田元幸が『翻訳夜話』(文春新書)で書いているのを見つけた。翻訳は芸術ではない、という見解だ。しかしもう一人の著者、小説家でありながら翻訳の名手でもある村上春樹は「自己表現的な部分は、柴田さん本人が思っているよりは強いんじゃないか」と言う。原文がある以上、自分を語ることではありえないが、かといって芸術的でない翻訳などつまらない、というわけだ。

広告主あっての広告。原文あっての翻訳。こういう図式を下敷きにして読んでみると、この本は広告の仕事に携わる人に実にたくさんの示唆をくれる。最近どうも仕事がつまらないんだよなぁ・・・・・・という方には。特に強くおすすめしたい。(了)

青と赤の2色を使って「芸術」と「実務」を表してみました。この配色で、渡辺香津美の名レコード「KYLYN」のジャケットを思い出した人は、もういいトシです、お身体ご自愛を・・・・・・。推薦書の目玉は、ポール・オースターを村上が、レイモンド・カーヴァーを柴田が、と互いの看板を交換しての「競訳」。これがいいんです。

KYLYN / Kazumi Watanabe

※こちらが「KYLYN」(1979)のジャケット。タイトルは、当時の渡辺香津美のバンド名。まだYMOが売れる前の坂本龍一(1952-2023)が共同プロデュース、参加メンバーに高橋ユキヒロ(1952-2023)、矢野顕子、村上秀一(1951-2021)、小原礼、本多俊之、向井滋春、ペッカー…と、錚々たる顔ぶれだ。パーマネントなバンドではないが、さすが一流揃い、演奏は全くスキがない。私の世代は、フュージョンとしてこれをリアルタイムで聴いた者(渡辺香津美からの線)と、YMOブームから遡ってあとから聴いた者(坂本龍一からの線)が混在する。ざっくりいうと、前者が都市圏育ち、後者が田舎育ちで、私は後者。ネットのない時代は、今よりも地域による情報伝播の時間差が大きかった。その二層が交錯する「間」の位相にある一枚ともいえる。(2026年4月加筆)

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