マーケボン Vol.26

Xenakis

※読売新聞社の刊行物に連載した書評のアーカイブです。
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マーケボン
(2013年6・7月号)

Vol.26 : スタチスチク
『統計学が最強の学問である』(西内啓/ダイヤモンド社)

プロの端くれとしてこういうことは人前では口に出さないようにしているが、調査ってなかなかにして不思議なものだと思う。

コピーライター志望で広告会社に入社して、どういうわけかマーケティングの部署に配属された。大学では文学をやっていたから、関連知識は全くゼロ。調査の仕事を任されて、先輩の書いた前年度のレポートを手本に、前年に比べてブランド好感度は・・・・・・云々とコメントを書きながら、どうしてこんな“それらしい”数字が得られるのだろうと驚いた。昨年にたまたま何人かに尋ねた質問への回答と、それから1年後にたまたま何人かに同じことを尋ねて得られた回答が、全くデタラメにならず、一定の傾向を持っていて比較できること。人は気まぐれなものだから、出てくる数字がもっとデタラメになって然るべきではないか、とその時の私は思ったわけだ。というか調査や統計の知識を身につけた今になっても、実は時々ふとそんなことを思うことがある。あまりに素人くさくて大きな声では言えないが(笑)。

「人の心の変化を察するは、人力の及ぶ所にあらず。到底その働は皆偶然に出て更に規則なきものというて可ならんか」とは、福沢諭吉の『文明論之概略』の一節。人の心は気まぐれで規則なんかないという気がするけれども、曰く「決して然らず。文明を論ずる学者には自からこの変化を察するの一法あり」と。彼がここで紹介するのが「スタチスチク」、つまり統計学(statistics)だ。「土地人民の多少、物価賃銭の高低、婚する者、生るる者、病に罹る者、死する者等、一々その数を記して表を作り、此彼相比較するときは、世間の事情、これを探るに由なきものも、一目して瞭然たることあり」として、こんな話をする。お客の一人一人がいつどの店で蒸菓子を買うかは偶然でデタラメなことだけど、1日に売れる蒸し菓子の数はだいたい決まっていて菓子屋は残品を腐らせることはないではないか、と。福沢諭吉はリテラシーという言葉こそ使っていないが、本質のつかまえ方、面白がり方が卓抜だ。

なるほど、お前が福沢諭吉まで引いて言うところの「数字の不思議さ」というのはわからないでもないが、毎日忙しいのにいまさらそんな素人くさい考えをひねくりまわしている暇は無いよ、という人もあるだろう。でも、仕事で数字を取り扱おうという人に必要なちゃんとしたリテラシーというのは、そういう感覚をないがしろにするところからは育まれないのではないかと私は思うのだけどな。

それにつけても、世は「ビッグデータ」流行りである。「これからの10年で最もセクシーな職業は統計家だろう」とグーグルのチーフ・エコノミストが言ったとか、「データアナリスト」なんて職種が話題になったりで、数字のリテラシーにあらためて世間の注目が集まっている。いい入門書ありませんか、ときかれることが増えたけれど、これがなかなか難しいんだな。この領域、何というか、シブイ本が多いのだ。本格的な修養にはもちろん地道な努力が必要な領域ではあるけれど、入門としてもっと「セクシー」な本があってもいいのにな、と常々思っていたところ、見つけましたよ、ありました。

その一冊がこれ。「統計学が最強の学問である」(西内啓著/ダイヤモンド社)。帯に「これからの10年で最もセクシーな・・・」の言もちゃんと刷られています。1981年生まれの若い著者が、統計学のエッセンスをキレの良い文章でまとめていて、実に面白く読めます。適当なアンケートをとってキレイな集計グラフを作るだけのマーケター、誤差を考慮せずやみくもにA/Bテストを繰り返すEC企業、何に使うかよくわからないままビッグデータ関連のシステム投資をしたマネジメント・・・・・・等々、他人事とは思われない耳の痛い話が頻出。これからの広告業界を担う若い世代にとって、数字に関するリテラシーを高める最良の入門書のひとつとして推薦しておきます。(了)

推薦書は統計学の本としては異例の売上を記録しているようだ。若い世代に限らず、一定の知識を習得済の世代にもぜひ。気になるのは社会調査についてやや冷淡なこと。そちら系の入門書もあわせて読んでおくといい。

加藤訓子

※本稿には音楽についての記述がなかったので、Web掲載にあたって加筆する。数学と音楽には親和性がある。三平方の定理で有名なピタゴラスが、紀元前のイタリア半島で「均整と調和」を謳った一種の教団を率いていて、数学と音楽がその教義の大元におかれていたのはよく知られている。ピタゴラスが注目したのは(今の言葉でいえば)周波数の比で、初歩の音楽理論の土台になっているところは、ある程度数学的に説明することができる。しかし、「音楽➜数学」(調和のとれた音楽を数学的に説明する)のと、「数学➜音楽」(数学を使って音楽を創る)のは別問題。往路と復路は全く違う。数学を使ったからといって、調和のとれた音楽ができるとは限らないのだ。騒音にしかきこえない〝前衛〟作品は多い。私は現代音楽の専門家ではないので、適当にきいて楽しんでいるだけだが、「数学➜音楽」では、クセナキス(1922-2001)なんかおもしろいんじゃないかと思う。冒頭に挙げた図像はクセナキスの楽譜の一例。これを見て想像されるとおり、いわゆる調和がとれた伝統的な音楽(調性音楽)では全くないが、ジャズやロックやハウスやエレクトロニカを知っている21世紀の私たちであればおもしろがれそうな作品も多い(というか、ポピュラー音楽がクセナキスの影響を直接間接に受けている)。数学を作曲に使うんだけどさ、最後はセンスだよね…というような発言があったとどこかで読んだ記憶がある。ガチガチの数学屋ではなく、センスを信じる人だったようだ。そういえば、若い頃はコルビュジェのところで建築をかじっていた人でもある。おもしろがれそうな…といいつつ、推薦盤となるとなかなか難しかったが、近年、素晴らしい録音が出た。加藤訓子という日本人パーカッショニストが、クセナキスの「プレイアデス」(1979)という6人の打楽器奏者向けに書いた作品を、多重録音をつかって一人で演奏したもの。見事な音像でこれはもうポップですらある。音大生や現代音楽マニアだけに聴かせておくのはもったいない。付け加えのようで何だが、「事象➜マーケティング理論」と「マーケティング理論➜事象」の違いというのも考えてみるといいかも。(2026年4月加筆)

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