
※読売新聞社の刊行物に連載した書評のアーカイブです。
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(2014年6・7月号)
Vol.32 : こわい人
『おざわせんせい』(博報堂/集英社インターナショナル)
山手線をぐるっと一周したことはありますか。日中はわりと空いていますから、きっと座ることができるでしょう。朝夕のラッシュが嘘のようにのどかな車内でおよそ一時間、本でも読むにはなかなかいいものです。字を追うのに飽きたら居眠りしたりしてね。
広告会社に在籍していた若い頃、よく乗ったものです。その時のことを思い出すと、今でもなんだか腹が痛くなってきます。サボって乗ってたんではないんですね。打合せの時間が迫ってくる、しかしまだ何も思いつかない。いいアイデアが降りてこない。焦る。焦る。焦る。あと一時間。オフィスの席でじっと考えているとプレッシャーで潰れそうで、苦し紛れに外へ。会社が丸の内にあったので、東京駅の改札をくぐって山手線。打合せまでの一時間、何とかしてアイデアをひねり出さねば。居眠りどころじゃありません。じりじりと時間が経って一周が終わり近くになると、腹が痛くなってくる・・・
なにしろ当時は打合せがこわかった。部屋に入るとビリビリとした緊張感、みんなむっつりと黙り込んで空を見つめている。広告会社の会議というとなんだか楽しそうなイメージがありますが、いやいやとんでもない。ビリビリの源は、真ん中に座っているクリエイティブ・ディレクター。みんなが書いてきた企画を黙って一枚また一枚とテーブルの端へ。静寂の中、時折漏れる溜息、舌打ち、はたまた苦笑。そのたびみんながビクリとなる。もうね、生きた心地がしないわけです。
私は基本的に、「こわい」というありようで組織の中の自分の存在位置をつくるのは反則だと思っています。能力とは別にただ「こわい」ということで一目おかれようというのは、大の大人のすることではありません。ただし、周りの誰よりも能力があって、その仕事に誰よりも真剣に相対している。こりゃこの人の前では生半可な関わり方はできないぞ、とみんなにどうしようもなく思わせる圧力、それを「こわい」というのならば話は違います。それは巷間言うところの「ブラック」とははっきりと区別されなくてはならないものでしょう。
今は時代が変わったせいでしょうか、かつてのように剥き出しに「こわい」人は減ったように思います。あるいは私が年をとったせいかもしれません。若い人から見るとどうなんでしょう。私が若い頃はそんな方々がたくさんいらっしゃって腹痛の絶えない日々、実にしんどい思いをしましたが、今から振り返ってみるとそれがどれだけ身の肥やしになったかがよくわかります。
今回の推薦書『おざわせんせい』は、帯に曰く「博報堂の生きる伝説、小沢正光の至言・名言・暴言集」。小沢正光氏は、若い時分に出くわした「こわい」クリエイティブ・ディレクターのひとり、大先輩です。本書は、一緒に仕事をしてきた人たちが、彼から言われてずっと忘れられないでいる強烈な一言を挙げたもので、元々は社内限定の刊行物としてまとめられたもの。それが出版社の編集者の目にとまって、「誰が読んでも面白い!絶対に面白い!」と一般発売に至ったのだそう。
いくつか引いておきましょう。「今は、戦時だ。」「言葉で殺されたいか?それとも、拳で殺されたいのか?」「蕁麻疹か。一人前だな。」あたりは、広告を戦争、自らを軍人に喩えるこの人らしい言。理屈ばかりのマーケターには「戦っている俺たちが欲しいのは武器や弾薬であって、批評ではない。一般人は黙ってろ。」、新人が会議でぬるい発言をしようものならその先輩に「戦争の真っ最中に、弾丸(タマ)の込め方を教えている暇はない。」となる。「考え方は、3つあるだろ。正しい考え方、間違った考え方。そして、俺の考え方だ。」「俺への返事は、大きいハイ!か、小さいハイ!だけだ!」とキリがないのでこの辺にしておきますが、それぞれの言葉を挙げた人たちの愛情に満ちた解説コメントを併せて読むと、単に可笑しいだけではなくて、広告という仕事についてときに深い思考に誘われます。特にこうした「こわい」人と接したことがない若い世代に推しておきましょう。どう読まれるのか、とても興味があります。(了)
自分も本書に同氏の言葉を寄せるとしたら、ネット広告部署が初めて設立されてそこに異動した時に呼び出されて一言、「平塚、俺にITを教えろ。ただし5分で、だ。」かな(笑)。頭が真っ白になったのを覚えています。

※本稿には音楽についての記述がないので、Web掲載にあたって加筆する。音楽の世界にもこわい人はいろいろいるが、クリエイティブディレクターに重ねるなら、オーケストラの指揮者が適当だろう。まず思い浮かぶのが、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)。いかにも癇癪持ちという顔がもうこわい。この人もエピソードの宝庫で、「リハーサル中に激怒すると、指揮棒を折る、スコアを破く、インク瓶や懐中時計を地面に投げつける、譜面台を壊したりするということもよくあり、コンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい、裁判沙汰になったこともあった」(Wikipediaより引用)といった具合。「しかし一通り暴れ終わった後は平然とした顔で、それではリハーサルを始めましょうとリハーサルを始めた。また、いかにもイタリア人らしく激しく怒っても翌日には忘れてしまい、まったく後に引くということがなかった。翌日も怒りが残るジョージ・セルとは対極をなし、常日頃からオーケストラの団員との会話を図るなどして人間関係の維持には心を砕いたので憎まれるようなことはなかったという」ともある。本人が望んだというデッドなモノラル録音もあいまって、曖昧模糊としたところのない、いわば贅肉を削いだような厳しい音楽づくり。剛のベートーヴェンをやっても、柔のメンデルスゾーンをやっても、その感じは変わらない。特に後者、イタリア交響曲の第4楽章、怒濤の追い込みはこの人ならでは。ところで、引き合いに出されてやや気の毒な「翌日も怒りが残るジョージ・セル」は、そのうちどこかで推薦することになるこちらも大変こわい名指揮者。(2026年4月加筆)
- 『おざわせんせい』(博報堂/集英社インターナショナル)
- メンデルスゾーン:交響曲第4番〈イタリア〉/アルトゥーロ・トスカニーニ(指揮)、NBC交響楽団